昭和四十二年八月二十五日 朝の御理解
金光教の信心が分かると云うこと、おかげを頂くと云うこと。只私が云うおかげは御利益が分かると云うこと、又金光教の信心が分かると云うこと。そこんところが合まって行かなければいけないと云うこと。金光教の信心を御体で分かると云う、心で分かると云うよりも、やはり分かると云うことはもっと頭で分からなければいけない。私共若い時分から、私は色々な詳しく勉強した訳ではないですけれども、いっぺん通り様々な宗教の本を読ませて貰った。やはり物心がつき少し理屈一つ言う様になりますと、子供はそれこそ母の体内の時分からの信心であり、いわゆる生まれながらの信心を頂いておるのである。只何とはなしに、仮に金光様の信心な有難い、有難いと育って来たのです。けれどもやっぱり世界中には様々なよい信心も、伝統を持った信心も、それからおかげを非常にその新かに受けておる信心もあると云うことです。そこに自分達ちゃあ、金光様は有難い有難いと云うておるけれども、もっと他によい信心がありはしないだろうかと云うような、宗教の研究とも何ともつかないので、けれども様々な宗教書なんかも漁って読ませて頂いた時代もございますが、けれどもどういう素晴らしい宗教書を読んでもですね、どうもおかしい。そりゃあ仏教だってそうである。世界の三大宗教と云われる仏教とか、キリスト教とか、儒教なんかの信心は恐らく真から分からんからそうだろうけれども、合点が行かない。けれどやっぱり有難いと仰っておられることをもって、詳しくもっと分かり易い絶大な教典に依って言い尽くし、書き表してとあります。ねえ、ところがですね、ぎりぎりのところに行ったら、なるほど金光教の御信心はまだ歴史こそ百年足らずですの、当時は私の若い時分な百七年ですか、立教当時は百年に満たない、いわば若いところの立教であるけれど、教祖の神の素晴らしさを確かめて神様が仰ったように、この方金光大神あって神が世に出たと仰る。言うにも後にも先にもこの世始まって以来こういう人間を見たことが無かったと云うような表現で仰っておられますものね。
それは何故か、どこがそうなのかと云うことを、色々分からせて頂いたら、成程金光様の御信心の素晴らしさと云うことを、私は青年時代に感じましたですね。それが誰が何と云ってもだから金光様の他に変じようとか、変じるとか動じることが起こらなかったですね。
金光様の御信心が頭で分かって来たですね。私その時分に一番私を捕らえたものは、教祖の神様の御信心がもう本当に実意丁寧を極められて、しかもそれが天地の親神様に認められて行きなさる過程が素晴らしかったですね。こりゃもう、云うならば霊的になってくるのですけれども、例えばキリスト教だって仏教だって人間の考えでは考えられないようなことから始まっているです。
そもそも、ですから人間の手の届くものじゃあないです。例えば、キリスト教の処女受胎とか、又は仏教の大体お釈迦様と云う方は皇子様ですね。云うならば教えだった学問から成り立った宗教で特別な地位、特別な学問を持たなければ分からない様な感じですね。
ところが、その教祖様の神様の御信心と云うのはそうじゃあないと云うことです。もう本当に自分でも仰る無学の百姓で何も分かりませんと仰っておられる様に、本当に無学の百姓である。御自分はそういう謙遜した表現をしておられますけれども、当時はやはり農民としては最高の学問を身に付けておられたと思いますですね。
表現力といい、書き残したものを見ましても。けれども云うならば、そこにもどこにもある、いわば人柄人物であると云うことですよね。ただ違っていられるのはどこまでもどこまでも、実意丁寧であられたと云うことです。同時にいわゆる神信心がお好きであったと云うことなんです。そんところで何時も申しますように、例えば次々と難儀が問題が起こって來る。七墓を築くようなことが起こってくる。そういう場合に一つもそのこれだけ信心するのにと云ったようなことではなくて、こりゃあどこまでも私がどこまでも至りませぬからと云うこと。人じゃあないの、誰じゃないの私が至りませぬからね。
神参りでも成る程、その当時の金神様の信仰が対象であった。知って向かえば命を取り、知らずに向こうても目を取ると云う程に新かなそういう力を持ってござる金神様が対象であった。
様々な難儀なことが起こって來るようなことでも、そりゃ金神様の力には叶わん、金神様の心に叶わぬことをするからこういう難儀なことが起こって來るのだと云う見方をなさっておられた。今でも同じでしょうが、私の結婚の年回りが悪かったけん不幸であろうとか、普請したのに家相が悪かったからこうじゃあないだろうか、名前の付け方が悪かったけんで不幸になるのではないだろうかと、云ったようなことを本当にそういうことを最高の学問をつけた人ですから、そういうことを申しますね。今でも御祝儀をすりゃあ、好日吉日を選ばにゃあならんとか、そういうその考え方でやっぱりおありになった。
教祖の神様は違っておられたのは、そういう例えば、知って向かえば命を取り、知らないで向かえば目を取るという程の新かな神様でおありになる、ならば目も下さることも出来るだろう、命も下さることが出来るだろう。これが氏子の私共の実意の欠けておるところを誠が欠けておるところであると、真の限りを尽くされ実意の限りをその神様に向かって尽くされた。どうぞ変えて下されと云う生き方が段々進んでおられるうちに、この神様が金神様から金乃神様と云ったような具合いに段々確かに向きを変えてこられた訳ですね。
神様そうしてギリギリのところでは天地金乃神と天地金乃神とか云う風に現れなさった。もうそれこそ、流行、たたりの何とかではなくて、それこそ慈愛溢れるばかりの氏子可愛いと云うそのご一念だけしかない神様である。しかもこの神様のおかげを受けなければ、それこそ人間氏子は一歩も立つことも出来ないと云う、いわば天地金乃神様の御正体と云うものを突き止められて行かれる過程と云うのが素晴らしかった。
道すがらと云うものが、神様のかくもそう変わって行かずに金光大神の、いわば教祖の神様の川手文次郎という百姓さんの信心の内容も変わって行くに従ってその名も変わってきた。初めから金光様とは言わなかった。金光大神の時代があった。大明神の時代がおありになった。双葉の氏子とか、一乃弟子とか云ったようなその信心の格と云うものが上がって行かれるに従って、この対象とされるところの神様が変わってこられた。
私そこんところに、もう本当にびっくりする程に共鳴した。素晴らしいと思ったことはございませんでした。今もその事は変わりません。少しばかり例えば、信仰に夢中になる様々な現在新興宗教も云っておるような宗教の宗祖とか教祖とかの人達は立派な熱心な信心を、滝の水を頂いたり様々な行をして神様と交流が始まって、そこに人間離れした、いわば働きを表して行かれることだけは事実なのです。どの宗教でもところがですね、もう実に私がその今度だけは人間の世界ではなく、少し霊の世界、神の世界が分かるようになって来てから、そこんところが感じたんですけれどね。ちょっとお話がだいぶ反れてまいりましたけれどもね、そういうところへたとえて云うならば、天理教なら天理教の大きな宗教がございます。
その中山ミキと云うおばあさんが熱心な信心をなさった。そして中山ミキと云う方は、いわば掛かってこられた交渉を始められたところのそれは知らんですけれども、やっぱり天地の神様の様な具合いでしょうね。天理王の尊でしょうかね。いっぺんに掛かって来ておられる。これなんか実に実に危ない危ない気がいたします。
昔、あの慈光尊問題がありましたね。双葉山とかこうせい院熱中した宗教なんですよ。当時の新興宗教、これなんか一生懸命滝の水に掛かって拝んでなさったおられるうちに、天照大神がぽんと掛かってこられたようになって、天照大神御神と思われるようになって、それから色々のことが分かるようになり人に伝えて行かれた。色々の事件があって潰れましたけれどもね。もう大体分からんです。他の宗教は変わらんです。それを受けた人が思い込んで仕舞うたのが、今の宗派の元をなしておる。特に日本の宗教はそれが多いです。
ところが、金光教の御信心は教祖の神様が平凡人でおありであったから、信仰の実意丁寧の限りを尽くされた方であった。だからこれなれば、私達でも出来ると云うことなんですよ。皇子様でなくても処女でなくても、キリスト教なんかは思うですよ、男なしに生まれなさったと云うことですから、娘のまま受胎なさったと云うのですから、普通なら想像つかないでしょうが。
教祖の神様の場合はそうではない。私共でも教祖の神様の歩かれた様な道を、歩かれた道を信心させて貰えば、私共一緒におかげを頂かれる道なのです。
この方のことを生神、生神と云うけれども、この方ばかりが生神ではない。みんなもそういうものを持っておるので、一人一人が神様の氏子としての神様になれる資格を持っているのだ。だからそれを磨き上げて行きさえすれば、みんなが生神になれる道なんだ。生神とは、ここに神が生まれると云うことであって、みなさんが有難いなあと思われることがあるでしょうが。生神とはあれなんです。自分の心が拝みたいことがあるでしょうが。あれなんです。だから、そういう気持ちを段々進めて行こうと、そういう気持ちを段々小さいものから大きいものに完璧なものにして行こうとする精進が、金光様の信心は私はまだお取次とか、あの立教神伝なんかを段々勉強させて貰うと、いよいよ金光教の御信心でなからなければ真実本当に助かりは得られないとすら、感じられるようになりました。
そこで私が今日は又、私が言おうと云うところに戻りますけれど、信心が分からなければいけないと云うことは、金光様の御信心はそんなにも素晴らしい立派なものであると云うことを、只聞いただけではなくて、自分も勉強して話を聞いて、なるほどと分からなければいけないと云うことですから、その気になれば難しいことではないよねえ。そしておかげを頂いて行かなければいけないのです。
御利益を頂いておかげを頂いて行く、その喜びがその有難いものがじっとしておられないと云うのが、お参りになったり御用になって来なければならないと思うのです。
最近信徒会のなんかでも、それが第一番と申しますのは、いわゆる信心は御用だと云うのです。御用が出来んことが信徒としての第一の信心だとしておる。私はそうじゃあないです。私は全然反対です。御用すりゃあ助かる時代はあります。けれどもそれでは本当の助かり得なかった。私自身が私もそれを知らなかったものですから、どこの先生から聞いても、何処で聞いても御用すりゃあ助かるですから本当に命がけで御用させて貰ったですね。云うならば、自分も食べなかったっちゃ、着る物がなかったっちゃ、神様の時には御用させて頂いたですね。なるほど有難かったですね。おかげ頂いてきたですね。それで本当のおかげにはならなかったですね。
信心は御用なりと云うけれどもそうじゃあない。信心はそんなものじゃあない。信心はやっぱり自分自身の心を磨いて行く以外にない。信心はやっぱり毎日毎日改まりをして行く以外にない。
不思議に改まったら心の悩みが無くなったです。改まれば改まる程心配がなくなったです。心の中に喜びと安心が頂けてきたです。それを今度は様々な問題に直面する度に砥石として磨いてきたです。そして来たら私が助かるだけでなく、人が助かるようになって来たです。信心とはやっぱり教祖様が御教えのあの百八条の中に、御用をすれば助かると云うことなんかでは一つもないです。
それを何時の頃からか、信心は御用なりとなって言ってきた。御用しちゃあならんと云うことじゃあない。させて貰わなきゃあならんけども、信心が分かりおかげを頂かせて頂いてから、分かれば分かる程、おかげを頂けば頂ける程実意丁寧な御用をさせて貰わなければおられないと云うのが御用。この前がそうでしょうが。御用したが助からんと云うて一生懸命御用をしてから、この御普請が出来たのではない。そんなことだから、よそのことだけれど私の知る限りなんですけれど、多くの建築が出来ますと、必ず何人か信者が丸裸になっている。裸になりっぱなし、おかげを落として仕舞うて信心まで落として仕舞った例。私はよく知っておる。金光様の御信心ではそういうことがあってよかろう筈が無い。
おかげを頂いて有難い信心は、分かれば分かる程そうさせて貰わなければおられないと云うのが、ここの御用なんかは金光造営という大きな御用になったのです。誰も財産を譲ったと云う者もおらなければ、その為に困ったと云う者はないでしょうが。益々御用を頂いた者は、御用を頂いた者が繁盛のおかげを頂いておるのです。ですから、御用をしなければならんところじゃあないけれども、やはり信心が若い。おかげを頂き、それが御用の姿に現れて來るのですから、もうこれは次の次の次の中原さんがお供えをしなさらんでよか、信心が分かることに依っておつとめなさればよろしいと云うこと。信心が分かって来たらお供えをしなければおられんのねえ。そうやってからおかげの方が先回りしてから、こりゃあ自分がお供えしよるのではないな、神様からお供えをさせて頂いとるとだなあと分かるようにはっきりして來るです。こりゃあだから、本当か分かりませんけれども、私はそう思うです。私共も神様の御用ならばそれこそ、前に進んでも後には引くまいと思っとります。まあだから、神様が私のもし持っておる家から財産があって、それが必要と仰るならば何時でもはいどうぞとのしを付けられることが出来ます。
何故かと云うと私の心の中にある、いわば信心の喜びがおかげを頂いておる喜びと合う。私なりに信心が分かってきたからそれが出来るのです。そこで皆さん少しやはり、しっかり勉強しなければいけません。分からんのなら本当に尋ねてからでも、ここはふに落ちないどういう訳ですかと云う風に質問しなければいけない。分かっている人にそこは質問しなくても分からんでもおかげだけは頂く。確かにおかげだけで御用頂いておるならば、今度はおかげでないと思ったら御用出来なくなってくる。
ところが信心が分かって行くとそうじゃあない。だから信心が分かると云うことは大金を積んで信心が分かると云うことではなくて、私は勉強すれば誰でも分かると云うこと。勉強すればと云うこと。 私は小学校しか卒業してない私ですらが、勉強で分かるのですから必ず本を読まなければ分からんと云うことではなくして、本当云うたら私の話を本当に聞いて下さい。分からんところがあるなら、質問をしておいでになると、信心が分かってくるのです。
信心が分かって行くと云うことは、頂くと云うことではなくて、分かるだけでいいのです。そしておかげをもってひとつおかげを頂いて行く。そして御用なのです。
だから皆さん、でも色々あらゆる宗教も勉強をしてよいのですよ。金光様だけではなかもん。何様でももっと新かな御利益頂ける、そこ様の御利益で迷うことでなくて信心そのものを、折角信心をさせて貰うなら後に悔いを残さんで済むような、これならばと思う信心を身につけて行かなくては駄目ですよ。只何でもおかげ頂いたとか、御利益が新たかだと云うようなことでうろちょろしてる様な信心ではつまりません。
私の青年時代から誰が何と云うても金光様の御信心に勝ものはない。信心はこういう素晴らしい信心を分からんなりに頂いておったと云うことは有難かったです。だから、そこんところを皆さんがですね、そこんところを今日教祖の神様に向こうておられる過程、道すがらのことを私は素晴らしいと思いました。そのことだけではないです。他のところはです、色々です。他の宗教には疑問になるところがおかげ受けます。教えは立派です。疑問になるところが、どうも解明出来ないところがある。おかしいと思うところがある。ところがそのおかしいと思うところがない。皆さんが例えば、金光様の御信心におかしいと思うところがあるならば、おかげ頂くけん付いて行きよるとではなくて、おかしいと思うところがあるならば、それをほんとに分かって行かなきゃあならん。そういう私は精進勉強をなさらなければいけないと、おかげを、信心を分かると云うことです、ねえ。信心を分かると云うことを今日は強調したつもりです。 どうぞ。